言葉の世界

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【もしも私が、そこにいるならば】片山恭一「わたしという人間が弱すぎたんだ」

【もしも私が、そこにいるならば】片山恭一

 

「母のせいですね」

しばらく間を置いて内藤は口を開いた。

「当時はそう考えたが、結局は自分の人生だ。誰かのせいにできることなんてありはしない。うまくいかないのは自分のせい。わたしという人間が弱すぎたんだ」

「でも母があなたを傷つけたのでしょう」

「誰もわたしを傷つけなかったよ」彼は遠い目をしていった。「お母さんはお母さんで自分の人生を生きようとしただけだ。ただわたしの方はどうしても忘れることができなかった」

 

 

傷つくことを選んだのも自分。

人のせいにするのも自分。

 

結局は、自分自身に戻ってくる。

 

 

自分が傷ついてことを

認められる人は

弱いのではなく

弱さを強さにかえることのできる人。

 

 

 

わたしは

弱さを強さにかえられているのだろうか?

 

 

弱さをひたすらに

隠そうとはしていないだろうか?

 

 

ひたすらに。とまではいかなくても

全面に出そうとは、思えない。

 

 

弱さが

あたらしい弱さを

呼んでくることがこわい。

 

 

いくらでも

弱い自分と出会うことができそうな

そよ風にでも倒されそうな自分。

 

 

そもそも、

弱さとは

なんなのだろう?

 

 

弱いことが

いけないことだと

誰がきめたのだろう?

 

 

 

「弱音を吐いちゃいけない。」

「弱みを見せちゃいけない。」

 

疑うこともなく

信じていたルール。

 

 

果たして

本当なのだろうか?

 

 

 

弱音を吐くからこそ、

自分が何をおそれ

どれだけヘタレなのかを

知ることができる。

 

虚勢をはらなくていいから

等身大の姿でいることができる。

 

 

 

弱みをみせるからこそ

その弱みをカバーしてくれる人が

登場してくれる。

 

弱みをみせた相手は

きっと、人生の味方になってくれる。

 

 

敵には弱みを見せてはいけない。

弱みを責められるから。

 

いやいや、

敵がいる前提の世界は

もういらないよ。

 

 

 

それよりも

情けないところも見せて

しょうがないなあ~と

笑い飛ばしてくれる仲間が欲しいから。

 

もしも私が、そこにいるならば (小学館文庫)

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