言葉の世界

言葉から、世界を知り、世界を創っていくブログ

【ふくわらい】西加奈子「定の体は、絶対にそこにあって、それは、定の体以外の、何ものでもないのだ」

【ふくわらい】 西加奈子

 

定は、まず、暗闇の中で、自分の手を見てみる。見えないはずなのに、見えるような気がする。何故なら、そこに手は「ある」からだ。定はしばらく、自分の体の気配を感じる。真っ暗闇の中、動かずにじっとしていると、体の輪郭が溶け、なくなってしまうような気がするのだが、定の体は、絶対にそこにあって、それは、定の体以外の、何ものでもないのだ。

 

 

目で見えなくても

あるものは、ある。

 

 

人って

五感の中で

視覚にどれだけ頼っているか。

 

目を閉じて

一日を過ごすことなんて

不可能に近いのではないだろうか?

 

 

 

見える世界

見えない世界

両方が成り立つ。

 

 

そうそう、

「ココロの目で見る」

という表現があるけれど

実際、ココロに目があるわけではないのに

どうやって見るというのだろうか?

 

それこそ、

昔からずっと、

人は見えないものも

見ていたのではないかと

思ってしまうのです。

 

 

 

自分の目で見えないものでも

実在するものがあるもん。

 

 

赤外線だって

紫外線だって

そうでしょ?

 

 

肉眼では見れないけれど

特殊なカメラでは

見ることはできる。

ほら、実在してるじゃない。

 

 

目で見えないものも

ないわけじゃない。

 

 

 

目を閉じて

感じることを

もっとしていこうかな。

 

 

夜にね

ベランダにでて

目を閉じてる時間。

 

閉じているけれど

感じるものは

意外と多くある。

 

 

肌を通り抜けていく冷たい風。

通りを歩く人の声。

お月様が見守ってくれているような

包まれている安心感。

わたしのざわめき出てくる思考。笑

 

 

思考って

なかなかゼロにすることが

難しいんです。

 

 

いかに、日ごろから

考えてばかりなのかを

突きつけられる。

 

 

空っぽになる時間。

慌ただしい毎日を過ごしている

2017年を生きる わたし達は

暗闇のなか、

空っぽになる時間が

必要なのかもしれないですね。

 

 

ふくわらい (朝日文庫)

ふくわらい (朝日文庫)

 

 

 

 

【よろこびの歌】宮下奈緒「歌う楽しさなんて、私は知っていたのだろうか?」

【よろこびの歌】 宮下奈緒

 

多くを望まないつもりで、実際にはとても多くを望んでしまっていたことに私はすぐに気がついた。うまくなくてもいいから歌う楽しさを知ってほしいと、たぶん私は思っていた。たぶん、というのは、そのときの率直な気持ちを正確には思い出せないからだ。私はたぶん、少ししか望まないつもりで、すごく大きなものを望んでいた。歌う楽しさなんて、私は知っていたのだろうか?自分が知らないものを、人に教えることができるのだろうか?

 

 

自分が知らないものは

人に教えられないと思う。

 

知ったつもりで教えるのと

体験して知っているものを

教えるということは

同じ言葉で言われていても

受けとるエネルギーは違う。

 

 

 

楽しさは伝染するよね。

勝手に。

 

 

楽しさは教えるよりも

伝わっていく。のだと思う。

 

 

自分が楽しくしていたら、

その楽しさが波動となって

人に入り込んでいく。

 

 

だから、

教える必要はないのかも。

 

 

 

 

わたしは

中学、高校と吹奏楽をしていたのあって

人と演奏することが好きです。

 

一人で演奏するよりも

誰かと奏でる音楽が好き。

 

 

その純粋な楽しさを

学生時代に感じていればよかった。と

ちょっとだけ後悔しました。

 

 

楽しさよりも

上手くなりたい!の

向上心のが強くて、

楽しくやろうよ。と

できなかった。

 

 

厳しい部活だったのもあり、

できるようになるために

相当の努力をした。

 

できることが

楽しさであり

できることが

喜びでもあったから。

 

 

 

努力した結果としての

「楽しさ」が

わたしは好きなのかもしれない。

 

 

吹奏楽での努力は

わたしにとっての普通のことで

努力が努力でなかったということ。

 

 

でも、

その努力が苦しかった仲間が

いたのかもしれないなぁ。と

今となっては振り返られる。

 

 

 

「どうして努力をしないのか?」が

理解できなかったから。

 

 

そして、

曲が吹けるようになることの

楽しさは当然だと思ってたから。

 

 

 

わたしの楽しさは

時に厳しさになり

人を攻撃するのかもしれない。

 

けれど、

その根底のエネルギーが

楽しさだったら

人は一緒に努力をしてくれるもの。

 

 

 

楽しさは、

『人を動かす最大のエネルギー』

ということですね。

 

 

よろこびの歌 (実業之日本社文庫)

よろこびの歌 (実業之日本社文庫)

 

 

読書記録13【チーム】堂場瞬一

【チーム】堂場瞬一

 

チーム (実業之日本社文庫)

チーム (実業之日本社文庫)

 

 

 

大好きな箱根駅伝の物語。

 

わたしの住んでいる場所は

箱根駅伝の選手が走る

国道一号線のすぐ近く。

 

観に行こうとすれば

歩いて30秒でコースに到着する、

そんな環境で育ちました。

 

 

なので、

1月2,3日は

当たり前のように

箱根駅伝を見ていました。

 

 

大学生の選手たちが

とても年上のお兄さんだったのが

いつのまにか、

今年の大学一年生は

一回りも年下になるほどに

私も歳を重ねていることに驚きました。

 

 

ちなみに、

駅伝は箱根駅伝しか観ません。

出雲駅伝

ニューイヤー駅伝

興味がありません。

 

 

好きな駅伝は

箱根駅伝のみ。

 

 

応援する側にとっても

特別な駅伝なのです。

 

 

 

さて、

そんな箱根駅伝がメインの

「チーム」。

 

 

他にやることを差し置いて

一気読みしました。

寝る時間も忘れて、

夜更かししました。

 

 

ちょうど、

わたし自身が

個人競技よりも

チーム競技が好きなことを

認識した日に読んだ。

ということも

巡り合わせなのかもしれません。

 

 

「なぜ、チームで行うことが好きなのか?」 

を、本を読みながら考えていました。

 

 

 

駅伝。

チームの個人、個人のベストタイムが

はやいからといって、

そのチームが優勝するわけではない。

 

 

走っているのは、一人なのに。

 

 

「チーム」の登場人物の中で、

誰よりも走ることがはやく、

自分のためだけに走っている男がいました。

 

駅伝もチームのためになんか走らない、

自分のベストタイムを出すために走る。

 

 

その態度に、

学連選抜の他のメンバーは

怒りを覚えます。

 

 

 

だったら、

駅伝なんか出ないで

ずっと一人で走ればいいのに。。。

 

 

 

駅伝は

サッカーや野球のような

一緒にプレイするチーム競技と

また、違う一面があるのだと思います。

 

 

みんな、走るだけ。

 

 

 

もちろん、

箱根駅伝の10区には

特徴がありますから、

各々の場所にふさわしい人が走ります。

 

 

 

だけど、

なんていうのかな。

 

 

走るだけなんです。

そして、襷をつなぐ。

 

 

駅伝を経験したことない私の想像なんて

想像の範疇を超えることはないけれど。

 

 

 

一人で走るだけでは発揮できないパワーを

チームの一員として走ることで

得ることができることが魅力なのだと思います。

 

 

 

あの、襷をつなげるために

どれだけのドラマが隠されているか。

 

 

自分だけのエントリーだったら

途中棄権しているであろう状態でも

次のランナーへ襷を繋ぐためならば

走ることを選択できる。

渡すその瞬間まで、

足を止める選択はない。

 

 

そこには、

チームがあるから。

 

 

誰かのためだからこそ、

発揮できる力があること。

それは、しあわせなこと。

 

 

自分だけでは

所詮、頑張れないんだ。

 

 

自分のために生きるけれど

その、自分の力を

誰かの役に立ててこそ

生きている実感を

人は味わうのだからこそ。

 

 

 

【アムリタ】吉本ばなな「その考えを吐き出すのは、お話を作ることしかないって思った」

【アムリタ】吉本ばなな

 

「夢に神様みたいなてかてか光った人が出てきて、何かを言ったんだ。そうしたら何かが変わっちゃって、頭の中が止まらないんだ。人間は、毎日ご飯を食べて、うんこやおしっこをして、毛が伸びて、ほんとは絶対にとどまれなくて、今にしかいられない作りになってるのに、どうしてか昔のことをおぼえてたり、先のことを心配したりする。不思議で、不思議でって考えてたら、その考えを吐き出すのは、お話を作ることしかないって思った。いろんな人のいろんなことを書いているうちに、自分の感じていることがはっきりわかりそうな感じがして。」

 

 

いろんな視点で考えて見たい。

世界のことを。

 

自分の考えを知りたい。

自分の感じてることを知りたい。

 

 

だとしたら

いろんな人のことを書いていたら

自分のことが多角的に

わかることができるのではないか。

そう思う。

 

 

お話をつくること。

 

お話という画面に

自分のココロを反射させることで

画面に映った自分を見ることができる。

 

 

わたしという人間は

わたしという人間にしかなれなくて

誰かに代わる事はできない。

 

 

だけど、

わたしが、どんな人間か

説明することが

これほどまでに難しいのかと

日々、苦しむのです。

 

 

自己紹介、嫌い。

自分の何を紹介したらいいのか、

まったくわからない。

 

はじめての人たちのところにいくと、

決まってある自己紹介。

 

何を紹介しろというのだろうか。

何をいえばいいのだろうか。

 

 

自己紹介が上手い人はいいよね。

と、人の自己紹介を聞きながら

受けがいい人、

興味を惹かれる人、

すごいなぁ。と、心底思う。

 

そして、

自分の順番が

一生まわってこなければいいのに。

と、切に願う。

 

 

 

書いた文章を壁に貼っていて

それを読んで、

自己紹介としてほしい。

その方が、うんと楽。

 

 

話して伝えないといけないのは

辛いなぁ。

話すの、苦手。

 

 

だから、

こうやって文章を

誰も見てなくても

ただただ書いているのだろうけれど。笑

 

 

わたしの感じる不思議は、

わたしは、文章として

残していきます。

今も、これからも。

 

 

それは、

きっとさ、

息を吸うように自然なことで

息を吐くように毎日すること。

 

ただただ、生きている。

息を止めることだってできない。

息をしている間は

否が応でも生きている。

 

 

わたしは、

今、生きている不思議を

これからも感じ続けるのだろう。

 

 

 

 

アムリタ〈上〉 (新潮文庫)

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アムリタ〈下〉 (新潮文庫)

アムリタ〈下〉 (新潮文庫)

 

 

【ⅰ(アイ)】西加奈子「「みんな同じ」という「  」の中にみんなで入れられているようなものだった。」

【ⅰ(アイ)】西加奈子

 

本の学校は属すということにかけては、これ以上なく適した場所だった。

アイの入学した私立の中学は同じ制服があり、同じ体操着があり、同じ給食があった。

「みんな同じ」という「  」の中にみんなで入れられているようなものだった。そしてそれは、アイに安心を与えた。

 

 

 

属す。

自分を亡くす。

 

それには、

学校って本当便利だった。

 

 

学校が苦痛でもなんでもなく

馴染んだ私にとっては

学校に合わせればよいだけの環境は

とても楽だったのかもしれない。

 

 

 

うまいこと、学校のルールを見つけて

そこに合わせてさえいれば

優等生になれるゲームみたいな。

 

 

 

そして、

「みんなと同じ」という安心感は

とてもとてもあった。

 

 

 

みんなが、

半数以上が、

 

または先生が、

 

YESというほうを選びさえすれば

物事はうまく進んでいく。

 

 

 

次第に、

自分が何が好きで

何をしたいのかの

個性を無くしていった気もするけど、

 

 

個性を無くして

人に合わせることが

ある意味、わたしの個性でもあったから

学校は、わたしにとっては

安全で安心で、

楽な居場所だったように思える。

 

 

 

 

人と違うと

何だか不安になっていたあの頃。

 

 

 

好きなものさえ

自分を出すことはできずに

世の中で人気のあるものを

好きとしていた時だってある。

 

 

 

それでも、

何も考えないで

自分という存在と向き合わないで

合わせていれば流れていく

あの、安心感に

ずっと浸っていたのかな、私。

 

 

 

今だって、

人との共通点を見つけると

とても安心をする。

 

 

あ、一緒だ。って

思うだけで、

ひとつの壁をクリアする。

 

 

 

反面、

自分という

ただ一人の存在を確かめたくて

誰とも違う、

わたしだけの部分を知りたくなる時もある。

 

 

 

学校に通っていたあの頃は、

一緒だと思いたい割合が

9割以上だったから

学校という場に何も疑問ももたず

流れて日々を過ごしていたんだな。

 

 

 

とかいいつつ、

高校生の時とか

カラーシャツやポロシャツを着たり、

柄の靴下をはいたりと

違う自分も主張しながら

うまく馴染んでいたんだけどね。笑

 

 

 

 

今はもう、

同じように学校には

通えないかもと思った29歳でした。

 

 

 

 

i(アイ)

i(アイ)

 

 

詩の表現は自由だ

小学校2年生の3学期終わり

クラス替えの前に 

詩集を作成しました。

 

 

その詩を

よく覚えています。

 

 

【お手紙】

 

おてがみ、おてがみ

だしてごらん

 

きっと、きっと

お返事きますよ

 

切手をわすれずに

わすれずに

 

じぶんの住所

あいての住所

わすれずに

わすれずに

 

おてがみ、おてがみ

出してごらん

 

きっと、きっと

お返事きますよ

 

 

 

この頃から

言葉のリズムが

好きだった模様。

 

同じ言葉を繰り返す。

 

「きっと、きっと」

「わすれずに わすれずに」

「おてがみ おてがみ」

 

作文よりも

詩がおもしろいのは

 

単語をただただ

繰り返し使えるからかもしれない。

 

 

助詞を

つかわなくていい。

 

「て・に・を・は」

がなくていい。

 

 

一文として

成り立たせるならば

「お手紙を出してみましょう。」

になるのかもしれない。

 

だけど、

「おてがみ おてがみ

 だしてごらん」

って、

文としてだったら

赤ペンされる。

 

 

それが、OKなのが

【詩】なのかもしれない。

 

 

文章も好きだけど

【詩】も好き。

 

 

一番の自由を感じるのが

【詩】なのかもしれないですね。

 

 

 

【まく子】西加奈子「みんな「話すこと」を欲しがるモンスターみたいだった」

【まく子】 西加奈子

 

噂話はそこら中にあったけれど、大抵はみんなの暇つぶしの種にしか過ぎなかった。話すことが特別ないから、じゃあ誰かの噂話でもしましょうか。そんな感じだったし、その話の真相を本人に直接聞くこともしなかった。みんな「本当のこと」には興味がないのだ。大切なのは「話すこと」があるってこと。みんな「話すこと」を欲しがるモンスターみたいだった。一度それを発見したら、みんなが噛み倒した。そして味がなくなったら、それはいつか別の何かにとって代わられるのだった。

 

 

「本当のこと」はどっちだっていい。

 

ただ、きゃーきゃー騒いで笑ったり

とにかく話したい時がある。

 

 

そういうの、めんどくさいと思ってた、わたし。

近所の井戸端会議とか(今もあるのかな?知らないけど)

とりあえず女子で集まって、ただただ話すとか

何が楽しいのかいまいちわからなくて。

 

 

もっと、身のある話をしようよ。と思ってたし

いない人の話で盛り上がって、

真相を勝手につくりあげることにも

嫌気がさしていた。

 

 

みんな好き勝手に言いたい放題言うよな。って

冷めてみてたりしてた。

 

 

 

とにかく話したいって、

話すことは何でもいいって

そういうこと、あるんだね。

 

 

 

話すんだったら、

話したいテーマってあるじゃない?

いや、ないのかな?

 

わからなくなってくる。

 

 

 

話したくて話したい話。

でも、話したい話は、

聞いてほしい人にだけ聞いてほしいから

みんなのいる場で話したいわけじゃないし

話したところで盛り上がるかどうか別。

 

 

 

自分のことじゃないからこそ

無責任に盛り上がれることってあるもんね。

 

 

 

テレビの中の話とか。

あの俳優とあの女優が結婚したとか、

自分とかまったく関係ないのに盛り上がれる。

 

 

好き放題に、

あーだの、こーだの、言えちゃうのは他人事だから。

 

 

あっちに、こっちに、話が飛んでも成り立つのは

みんな人の話を聞いてないから。

 

 

そっか。

話したい人たちだけの集まりだったら

それが成立するんだ!と

今腑に落ちた。

 

 

 

聞く行為はなしにして

ただ話している。

別にちゃんと聴いてほしいわけじゃなくて

ただただ話したいだけ。

 

だから、別の話題になったとしても

その話題でまたべらべらと話す。

 

 

そういうコミュニケーションの取り方もあるわけね。

 

 

 

でも、

わたしは自分が楽しい話をしたいし

相手の楽しい話をしたい。

 

そこには

他人事だからの楽しさじゃなくて

自分があってこその楽しさがいいんだな。

 

 

 

まく子 (福音館の単行本)

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